懐かしの名曲伝説

1950〜60年代中心の名曲たちの由来をたどります。

サン・トワ・マミー / 越路吹雪

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今回はシャンソンの名曲「サン・トワ・マミー」を偉大なる越路吹雪の歌でお送りします。

 

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 ▲収録レコードジャケット

 


1964年にシングルカットされた、彼女の代表曲で、日本では最もヒットしました。


越路吹雪は、1980年、僅か56歳で生涯閉じました。


従って、亡き後はレコード、CD、現存する僅かな映像だけで見たりm聴いたりすることができます。


それでもシャンソンの女王・越路吹雪の魅力は充分にに伝わってきますね。。


今、改めて聴いてみると、彼女の実力がずば抜けていたかを思い知らされます。

 

「サン・トワ・マミー」のオリジナルは、ベルギー人のサルヴァドール・アダモによる「Sans toi ma mie」です。


アダモは、日本では「雪が降る」「ブルージーンと皮ジャンパー」などが有名です。


このベルギーの大ヒット曲を日本語訳したのが岩谷時子でした。


以後、越路吹雪はステージでは必ずこの曲を歌うようになり、彼女の代表曲として広く愛されます。


「サン・トワ・マミー」歌詞の意味


本来、この曲は男性が女性にフラレて悲恋を嘆くという歌でし


日本語に訳すと”私の女友だち、あなたなしでは“という意味です。


でも、越路吹雪のバージョンでは女性が男性にフラれたシように変えられています。


ですから、日本語バージョンでも違和感はなかったです。

実際に越路吹雪の「サン・トワ・マミー」の歌詞を読んでいきましょう。


歌い出しからドラマが始まります。


とても非情な失恋ですね。


手痛い失恋にため息をつく女性の姿が浮かぶようです。


自分のもとを振り返りもせず、別れて行った男性の心情が分からずに嘆きます。


それでも、あまりべったりとした
感じがしないのは、越路吹雪の歌唱力によるものですね。


またシャンソンと言う音楽そのものの総体的な傾向かもしれません。


時代を越えて、どこか切ない雰囲気を上手に伝えています。


越路吹雪は、この他にも「愛の讃歌」「ラストダンスを私に」「ろくでなし」など数々のヒット曲を生み出してます。

 

越路吹雪(日本語カバー盤)

 

♪サルバトーレ・アダモ(オリジナル盤)

 

 

男性のひげ剃り、ムダ毛、黒ずみ対策に「パイナップル豆乳ローション」

 

 

| アーティスト伝説/越路吹雪

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フリー画像


宝塚歌劇団男役トップスター、シャンソン歌手、舞台女優として活躍。


東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区麹町)出身。


所属レコード会社は日本コロムビア東芝音楽工業(その後東芝EMIに改称、現:ユニバーサルミュージック)。


代表曲に「愛の讃歌」、「ラストダンスは私に」、「サン・トワ・マミー」、「ろくでなし」などがあり、日本のシャンソンの女王と称された


1924年に東京・麹町に5人兄弟の3人目として生まれたが、両親は姉の看病に専念するため、越路は祖父母のもとに預けられた。


その後、父が新潟へ転勤し、越路も新潟で下宿した。
これが「越路吹雪」の芸名の由来となった。


その後、宝塚歌劇団男役スターとして戦中から戦後にかけて活躍した。


宝塚歌劇団27期生で、同期生に月丘夢路乙羽信子東郷晴子、大路三千緒らがいる。


1939年2月、宝塚歌劇団月組公演「宝塚花物語」で初舞台を踏んだ。


1951年の宝塚退団後は、1968年にフリーになるまで17年間東宝の専属スター女優として主にミュージカルで活躍したほか、歌手としてシャンソンや映画音楽を多くカバーす


特にシャンソンにおいては、作詞家・翻訳家の岩谷時子とともに数多くの曲を日本に紹介し、「シャンソンの女王」と称された。


同じ女性シャンソン歌手の岸洋子は「聴かせる歌手」、越路は「魅せる歌手」と評価され、人気を分け合った。


1958年にテアトロン賞、1965年に第7回日本レコード大賞歌唱賞、1968年に文化庁芸術祭奨励賞など、多くの賞を受賞した。


1953年から当時では珍しい歌手のワンマンショーであるリサイタルを開催した。


リサイタルは1965年より開設間もない日生劇場に場を移した。


リサイタルはさらに好評を博し、越路が逝去する1980年まで「ロングリサイタル」と称する1ヶ月に渡る長期公演となった。


「ロングリサイタル」は歌手・越路吹雪の名声を不動のものとしたのです。


1971年に越路は日生劇場のロングリサイタルの演目として、劇団四季と共に「ドラマチックリサイタル 愛の讃歌 エディット・ピアフの生涯」を作り上げ、以後越路の十八番として好評を博したが、それはこのような越路とピアフとの不思議な縁も大いに関係していた。


越路の「愛の讃歌」との出会いには、作曲家の黛敏郎が一役買っていた。


黛がパリのコンセルヴァトワールに留学している時に、「とてもいい歌だから、ぜひ歌ったら」とパリから越路に譜面を送ってきたのだという。


その後実際に越路が歌ったのは1952年9月の日劇のショー「巴里の歌」においてであった。


二葉あき子の代役でショーに出演することになった越路に「愛の讃歌」を勧めたのは、奇しくも当ショーの音楽監督を務めていた黛であった。


期日の迫る中で、戦後日本を代表する作曲家でありフランス語に長けた黛の弾くピアノと黛による歌詞の訳を聞きながら、岩谷は「愛の讃歌」の日本語詞を完成させたのであった。


これが岩谷の最初の訳詞でもあった。


宝塚OG枠を超えて国民的人気を博し、美空ひばり吉永小百合と並んで女性アイドルの源流とみる向きもある


テレビ出演はほとんどしないことでも有名であったが、1964年8月31日から始まった、フジテレビ系音楽番組「ミュージックフェア」の初代司会者でもある。


また、希にテレビ出演する際は、「お久しぶりのテレビでございます」と、視聴者へ挨拶をしたこともあったという。


NHK紅白歌合戦には、1952年・「第2回NHK紅白歌合戦」に、当初出場予定だった松島詩子を乗せた車がNHKに向かう途中都電と衝突する事故を起こし重傷を負ったことで出場が不可能になったため、急遽越路が代わりに出場し、これが紅白初出場となった。


当日越路は自宅で新年会(当時紅白は正月開催だった)の真っ最中で出場を依頼された時は泥酔状態だったが、時間が迫ると「じゃあ、行ってくるか」NHKへ向かい本番では見事に歌い上げた。


私生活では1959年秋作曲家の内藤法美と35歳で結婚、夫妻に子はなかったが内藤とは越路自身の逝去まで連れ添い、内藤は越路が56歳で亡くなるまでリサイタルやディナーショーの構成、作曲、編曲、指揮などを手掛けた。

 

 

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